中原中也

逝く夏の歌

並木の梢が深く息を吸つて、
空は高く高く、それを見てゐた。
日の照る砂地に落ちてゐた 硝子 ガラス を、
歩み来た旅人は 周章 あわ てて見付けた。

山の端は、澄んで澄んで、
金魚や娘の口の中を清くする。
飛んでくるあの飛行機には、
昨日私が昆虫の涙を塗つておいた。

風はリボンを空に送り、
私は かつ て陥落した海のことを
その浪のことを語らうと思ふ。

騎兵聯隊や上肢の運動や、
下級官吏の赤靴のことや、
山沿ひの道を 乗手 のりて もなく行く
自転車のことを語らうと思ふ。

宿 酔

朝、鈍い日が照つてて
 風がある。
千の天使が
 バスケットボールする。

私は目をつむる、
 かなしい酔ひだ。
もう不用になつたストーヴが
 白つぽく びてゐる。

朝、鈍い日が照つてて
 風がある。
千の天使が
 バスケットボールする。

わが喫煙

おまへのその、白い二本の あし が、
 夕暮、港の町の寒い夕暮、
によきによきと、ペエヴの上を歩むのだ。
 店々に灯がついて、灯がついて、
私がそれをみながら歩いてゐると、
 おまへが声をかけるのだ、
どつかにはひつて やす みませうよと。

そこで私は、橋や 荷足 にたり を見残しながら、
 レストオランに 這入 はひ るのだ―
わんわんいふ 喧騒 どよもし 、むつとするスチーム、
 さても 此処 ここ は別世界。
そこで私は、時宜にも合はないおまへの陽気な顔を眺め、
 かなしく煙草を吹かすのだ、
一服、一服、吹かすのだ……

妹 よ

夜、うつくしい魂は いて、
 ―かの女こそ 正当 あたりき なのに―
夜、うつくしい魂は涕いて、
 もう死んだつていいよう……といふのであつた。

湿つた野原の黒い土、短い草の上を
 夜風は吹いて、
死んだつていいよう、死んだつていいよう、と、
 うつくしい魂は涕くのであつた。
夜、み空はたかく、吹く風はこまやかに
 ―祈るよりほか、わたくしに、すべはなかつた……

失せし希望

暗き空へと消え行きぬ
 わが若き日を燃えし希望は。

夏の夜の星の如くは今もなほ
  とほ きみ空に見え隠る、今もなほ。

暗き空へと消えゆきぬ
 わが若き日の夢は希望は。

今はた 此処 ここ に打伏して
 獣の如くは、暗き思ひす。

そが暗き思ひいつの日
 晴れんとの知るよしなくて、

溺れたる よる の海より
 空の月、望むが如し。

その浪はあまりに深く
 その月はあまりに清く、

あはれわが若き日を燃えし希望の
 今ははや暗き空へと消え行きぬ。

 

いのちの声

もろもろの わざ 、太陽のもとにては あを ざめたるかな。―ソロモン

僕はもうバッハにもモツアルトにも倦果てた。
あの幸福な、お調子者のヂャズにもすつかり倦果てた。
僕は雨上りの曇つた空の下の鉄橋のやうに生きてゐる。
僕に押寄せてゐるものは、何時でもそれは寂漠だ。

僕はその寂漠の中にすつかり沈静してゐるわけでもない。
僕は何かを求めてゐる、絶えず何かを求めてゐる。
恐ろしく不動の形の中にだが、また恐ろしく れてゐる。
そのためにははや、食慾も性慾もあつてなきが如くでさへある。

しかし、それが何かは分らない、つひぞ分つたためしはない。
それが二つあるとは思へない、ただ一つであるとは思ふ。
しかしそれが何かは分らない、つひぞ分つたためしはない。
それに行き著く一か八かの方途さへ、 悉皆 すつかり 分かつたためしはない。

時に自分を 揶揄 からか ふやうに、僕は自分に いてみるのだ。
それは女か? うま いものか? それは栄誉か?
すると心は叫ぶのだ、あれでもない、これでもない、あれでもないこれでもない!
それでは空の歌、朝、高空に、鳴響く空の歌とでもいふのであらうか?

II

いづ れとさへそれはいふことの出来ぬもの!
手短かに、時に説明したくなるとはいふものの、
説明なぞ出来ぬものでこそあれ、我が生は生くるに値ひするものと信ずる
それよ現実! 汚れなき幸福! あらはるものはあらはるまゝによいといふこと!

人は皆、知ると知らぬに かかは らず、そのことを希望してをり、
勝敗に心 さと き程は知るによしないものであれ、
それは誰も知る、放心の快感に似て、誰もが望み
誰もがこの世にある限り、完全には望みえないもの!

併し幸福といふものが、このやうに無私の さかひ のものであり、
かの 慧敏 けいびん なる商人の、称して 阿呆 あはう といふでもあらう底のものとすれば、
めしをくはねば生きてゆかれぬ 現身 うつしみ の世は、
不公平なものであるよといはねばならぬ。

だが、それが此の世といふものなんで、
其処 そこ に我等は生きてをり、それは任意の不公平ではなく、
それに よつ て我等自身も構成されたる原理であれば、
然らば、この世に極端はないとて、一先づ休心するもよからう。

III

されば要は、熱情の問題である。
汝、心の底より立腹せば
怒れよ!

さあれ、怒ることこそ
が最後なる目標の前にであれ、
この こと ゆめゆめおろそかにする なか れ。

そは、熱情はひととき持続し、やがて むなるに、
その社会的効果は存続し、
が次なる行為への転調の さまた げとなるなれば。

IIII

ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ。