イギリス建築史

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イギリス史

1066
ウィリアムT
ノルマン・コンケスト

十字軍

ノルマン様式

  • 征服者ノルマン人はアングロ・サクソン人から身を守るために、土塁の城を築いた。ラテン語で要塞はCustrumと言い、小さな要塞はCastellumと言った。英語Castleの語源である。
  • 正方形の城、キープ。例:ホワイト・タワー、コルチェスター、ロチェスター、ヘディンガム等
  • トイレは屋外にあった。塔状の屋外便所もあった。

1199 ジョン

初期イギリス式

  • 水平のアーティキュレーションが際立ち、アーチの穏やかな曲線が初期イギリス式ゴシックの典型である。
  • ホールは応接、食事、舞踏会、使用人の寝室などの多目的室だった。その機能が分化していく過程が中世を通して見られる。
  • ホールにはデイス(dais)と呼ばれる二、三段高くなった段があり、主人の食卓(high table)が置かれた。
  • デイスの後ろの二階にグレイト・チェインバーが設けられたが、これはサクソン人の平屋のホールとノルマン人の主階を二階とする二階家が融合したものである。
  • グレイト・チェインバーは主人の寝室兼居間であり、客を接待したりもした。
  • このころ食事は一日に二回、午前十時〜十一時にdinnerが、午後四時にsupperが出された。
  • ホールの内側の小屋組の仕方が、単純なキング・ポストやクィーン・ポストといった圧迫感のあるものから、複雑なハンマービームになり、文字どおりの吹き抜けになった。

1349 黒死病

装飾式

  • 装飾式ゴシックの前半を幾何学的、後半を曲線的と呼ぶ。アーチやトレーサリに反転曲線が用いられ、リブ・ヴォールトもリブの数が増えた網状ヴォールトとなる。
  • グレイト・チェインバーで主人一家が公式の食事を摂るようになった。それと同時にホールではハイ・テーブルに上級使用人が座り、使用人だけで食事を摂るようになった。

1399

ヘンリーW

垂直式

  • トレーサリはパネル・トレーサリでヴォールトを支える束柱を床から天井まで一気に立ち上げて、垂直の方向性が強調され、ファン・ヴォールト(扇状ヴォールト)が採用される。

14551485

バラ戦争

ヘンリーZ

 

 

 

1509ヘンリー[

1534

英国国教会成立

初期チュ|ダ|式

  • バラ戦争が終わると、チューダー王家による財産の再分配があり、それまでの中世の支配階層に替わり、新興支配階層が生まれる。また、教会建築の時代から、次第に大邸宅建築の時代に移る。教会建築時代の石工達の技術が大邸宅のホールに生かされることになる。
  • 垂直ゴシックとイタリア・ルネサンスの融合で、ルネサンスの影響は全体構成ではなく、細部の意匠が主体である。
  • このころはまだ外敵から身を守るなごりがあり、中庭をもった平面だった。
  • ホールの主人の食卓(High Table)を明るくするための張り出し窓(Bay Window)が考案される。
  • 主人専用の居間パーラーが作られる。パーラーはフランス語のParlerから来ている。パーラーは普通、大寝室(Great Chamber)の階下に作られ、石壁やレンガ壁は漆喰で覆っても体裁が良くないので、木でパネリングされた。ナプキンの折り目のようにみえるパターンなので、リネン・フォウルドと呼ばれた。
  • 外に面した部屋では戸からの風を防ぐために、スパーと呼ばれる壁から突き出た衝立のスクリーンを置いた。その上には楽隊の座る部分が設けられた。
  • グレイト・チェインバーの寝台は隣室に移され食事専用のダイニング・チェインバーとなった。
  • ホールの表戸口の外側にポーチを建てた。ただし、入り口=ポーチはグレイト・ホールに接続していたので、建物の中央にはなかった。
  • グレイト・チェインバー(大寝室)の反対側のダイニング・パーラーの上にゲスト・チェインバー(客室)を設けたので平面図の形がそれまでのT型からH型に変わった。
  • 英国国教会の成立と伴に、当時イングランドの三分の一の財産を持っていたと言われる多くの修道院の土地が再分配され、邸宅建設のラッシュが始まる。
  • 羊毛輸出の帰りの船が重りとして、フランダースからレンガをもたらした。それらが、邸宅建設ラッシュで石材の不足をおぎなった。当時はイギリス積みと呼ばれる、水平二列で一組の、一列目には短軸のみを、二列めには長軸のみを現す積みかたをした。
  • イタリアから建築家がイングランドにやってくるようになり、装飾用のギリシア・ローマの柱がもたらされた。
  • このころやっと、各部屋に暖炉がつけられ、邸宅の屋根は煙突群で覆われることになる。
  • 大砲の性能があがり、中世の城は意味を成さなくなってきた。このころの城は砲台を備えた、壁が厚く、背が低く、深い堀で囲まれたものだった。
  • 中世まではかなりの部分が石工達による行き当たりばったりの建築だったが、ルネサンスの建築家達は設計図を引くようになってきた。
  • グレイト・チェインバーには真っ直ぐな木造の階段が接続していたが、小塔の内部で螺旋状になっている石造りの階段になっていった。ただし、このころは、ホールが吹き抜けで二階分をとっていたので、二階には廊下を設けることができず、二階の部屋にはそれぞれ階段を設けなければならなかった。
  • チューダー朝の庭園は四角く、トピアリー(Topiary)が配された。

1558

エリザベスT

エリザベス朝様式

  • エリザベス朝様式はゴシックからルネサンスへの転換期といえる。装飾はイタリアのマニエリスムの影響があり、オーダーがルネサンスの規範を少しはずれたものが多い。
  • ホールは天井が低くなり、二階に廊下を渡すことができるようになる。そのために、階段室は一つだけになり、豪華になっていった。最も重要な木工の個所である。当初この四角い螺旋階段にはその内部の四隅に柱(ニューエル)が下から上まで通してあったが、それが切られ、装飾が施されニューエル・ポスト(欄干柱)となった。
  • 二階の廊下はロング・ギャラリーへと発展していく。
  • まだ玄関はホールの端にあったため、左右対称とは言えなかったが、左右対称の感覚が生まれ、それまで一つだったベイウインドウを二つとした。
  • 以前は木造の屋根で雨・雪を避けるために傾斜がきつかったが、鉛板が使われるようになり、屋根を平らに作れるようになった。
  • 後期にはポーチは中央に配置され、より装飾的になり、平面図はE型となった。このEはエリザベスのイニシャルとおぼえるといい。しかし、E型は横から見ると、まだ左右対称とは言えず、両翼を少し後方にずらした、H型が生まれた。(Hでも中央にはポーチがついている。)
  • グレイト・チェインバーはステイト・チェインバーとも呼ばれた。特等船室がステイト・ルームと呼ばれるいわれである。
  • グレイト・ホールは単なる入り口の広間となっていった。
  • 暖炉は最も丁寧に彫刻を施されたが、イタリア人建築家ではなく、ドイツ人やフランス人が彫刻を施した。
  • ホールが一階のみとなり、ホールにも天井がつき、全ての部屋に天井がついた。イタリア人建築家は天井の板に石灰(ライム)と砂を混ぜたライム・プラスターの技法を運んできた。この漆喰には雄牛の毛を混ぜて粉が落ちてくるのを防いだ。また、この漆喰は皮紐模様(ストラップ・ワークstrap-work)で装飾された。
  • ロングリート(Longleat 1572)はその当時もっとも外向的な邸宅だった(Robert Smithson 1536-1614)。それまでは通常、ホールは中庭の突き当たりにあった。H型でもE型でも三方が囲まれた中庭の最奥にホールはあったが、ロングリートではエントランスポーチに直結されて、外に向いていた。しかし、まだエントランスの動線に対して垂直に接続している。また、立面の大半は窓が占め、ベイウインドウが左右対称に並んでいる。屋上には食事が終わった後に板砂糖、ママレードなどの甘味を食す場所のバンケッティング・ハウス(Banqueting house)が設けられた。

  • 下写真はロバート・スミッソンの代表作の一つウォラトン・ホール(Wollaton Hall 1580-1588)は下からドリス、イオニア、コリントの柱が積み上げられ、シンメトリカルになっている。この次の作のハードウィック・ホール(Hardwick Hall)では、エントランスの動線上にホールが置かれた。最早単なるエントランス・ホールと化した。

  • 室内でおまるで用を足した。

1603

ジェイムズT

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1642 ピューリタ ン革命

1649- 共和制

チャールズT処刑

ルネサンス

ジャコウビアン

  • 海外貿易が順調に伸び、建築様式はジャコウビアンと呼ばれ、繊細さよりは力強さや派手さを求められ、後のヴィクトリアンと並んで「悪趣味の時代」と呼ばれる。床の大柄な黒白の市松模様や、欄干、柱頭には魔物や怪獣の彫刻を配した。白い隅石積みの赤煉瓦の外壁、葱花形の屋根を載せた四隅の塔などが特徴的
  • ハットフィールド・ハウス(Hatfield House 1607-1612)はジェイムズ国王夫妻の行幸の際の宿泊場所ロッジングスを収めるために、両ウィングに夫妻のための部屋が設けられた。H型の平面図。

  • グレイト・チェインバーの食事の場としての機能がダイニング・チェインバーに、寝室の機能がベッド・チェインバーに、居間の機能がドローイング・チェインバーに昇華されていった。ドローイング・チェインバーはもともとグレイト・チェインバーでの公式の食事の後に「退場withdraw」する部屋だった。
  • イニゴ・ジョーンズ(1573-1652)が1615年王室の測量技師総監(サーヴェイヤー・ジェネラル)となる。ジョーンズは16世紀のイタリアの大建築家パラディオ(1508-1580)に傾倒し、弟子から遺稿を多数引継ぎ、イギリスにイタリア建築を紹介した。左のグリニッジにあるクイーンズ・ハウス(The Queen's House 1616-1635)はイギリス最初の古典(ルネサンス)建築である。長方形の箱型の建築でイオニア式列柱がならび、パラディオ様式である。一階部分の外壁は石のブロックの溝が深く刻まれ(rustication力強く見せるため)、二階部分の外壁は漆喰で化粧をされ(stucco)ている。屋上のバラストレード(この時期に初登場)が屋根を隠している。右のホワイト・ホールにある、バンケティング・ハウス(The Banqueting House 1619-1622) も長方形の建築で両端が一対の付柱で中央の3つのベイ・ウインドウを四本の半円柱の柱が区切り、リズムを出している。ちなみに窓枠は後世に変えられたのでスチュワート朝の窓ではない。チャールズTはここで処刑された。

  • スチュワート朝時代の窓は窓枠の中心部に十字を切るような桟が特徴的である。
  • 水洗便所が現れる。
  • 入り口を初めて建物の中央に配置し、両側に均衡を保った部屋を配置した。
  • 入り口の両側にローマの柱を配して、三本のコーニスでつなぐのが流行した。
  • 後期にはポーチやベイ・ウインドウがなくなり、窓は単なる長方形となった。
  • 階段室の上に塔を設け窓をつけることにより、採光した。
  • 石炭が使われるようになり、暖炉を小さくすることができ、それまで装飾は石細工だったものを木細工でできるようになった。
  • ピューリタン革命により、教会自体が疎んじられ、当然教会建築もほとんど忘れられた。
  • 1646年の後見裁判所廃止により、ジェントリーの所有する土地に対する貴族の権利が否定され、ジェントリーは独立し、貴族に使用人として仕えることがなくなった。そのためbuttery(食料倉庫 フランス語のbouteillからきている。)だけを管理していたバトラーbutlerが家政全般を取り仕切るようになる。

1660

チャールズU

王政復古

 

 

1688 名誉革命

1689

メアリ女王

オレンジ公ウィリアム

王政復古

  • ヨーロッパ各国の王はフランス絶対主義と宮廷生活を真似た。チャールズもフランスに亡命していた時期があり、フランス式の建築様式が取り入れられた。
  • ドローイング・チェインバーにアンテ・チェインバーが付け加えられ、私的な居間のドローイング・ルームは公的な応接室となった。私的な書斎であったクロゼットは豪華になり、キャビネットと呼ばれ親密な人達が呼び入れられるようになった。チャールズUは重臣をキャビネットに集めて政策決定をしたが、これが内閣(cabinet)の起源である。

 

  • レンとヴァンブラの助手を務め、王立営繕局長を務めたニコラス・ホークスムア(16611736)の代表作はノーザンプトンにあるイーストン・ネストン(現在のヘスケス卿邸)。
  • ウィリアム・トールマン(16501719)は頑固で完成まで手がけた建築は一つもない。
  • オレンジ公ウィリアムに連れてこられたオランダの職人は上下にすべるサッシュ窓の技法をもたらした。
  • オレンジ公ウィリアムのときに煉瓦造りの建築がさらに盛んになり、イギリス積みよりは、水平の一列にレンガの長軸と短軸を交互に現すフレミッシュ・ボンド(オランダ積み)が採用された。
  • グレイト・ホールは只の玄関ホールとなっていた。そのためホールの長軸中央に玄関がついた。
  • 玄関ホールの後ろには庭が見渡せる背の高い窓のあるホールがあり、サロンsalonと呼ばれ英語のsaloonの語源となる。サロンには庭に降りるための階段のついた長いテラスがあった。
  • パーラーはドローイング・ルームと呼ばれるようになった。
  • 壁と天井の境目を丸くするため「コウブ(天井の折り上げ)」と呼ばれるデザインをした。
  • 1690年から40年間ほどがイギリスのバロック建築の時代である。ジョン・ヴァンブラ(16641726)の代表的作品はヨークの北にあるカーライル伯爵のキャッスル・ハワードやオクスフォードの北にある、モールバラ侯爵のブレナム・パレスである。ここでもグレイトホールがまだあるが、最早食事用ではなく、巨大な玄関ホールとなっている。また、玄関ホールの後の庭の眺めの良い場所にサロンが設けられた。

  • 庭園についてもフランスの特にヴェルサイユ宮殿などの造園を請け負ったル・ノートル(Le Notre 1613-1700)などの影響が強く、幾何学的な人工的庭園が盛んになる。しかし、キャッスル・ハワードでは森陰に廟が見え隠れするなど随所に風景画的な発想があり、後の風景式庭園の先駆となる。

1714

ジョージT

ジョ|ジアン

初期ジョ|ジアン

  • コレン・キャンベル(Colen Campbell 1676-1729)の設計した、ホートン・ホール(Houghton Hall 1722)は典型的なパラディアニズムである。ラスティケーションを施された一階部分となめらかな壁の二階以上。正面のポーチコ。両側のペディメント付の塔。塔には中央の開口部にはアーチが、その両側には開口部に梁のかかる計三連の開口部。ダイニング・チェインバーは私的な食事を摂る部屋だったが、ここでは公式の食事の場となり、玄関ホール後のサロンでは公式の食事は取られないようになった。

  • 朝食が朝十一時ぐらいに摂られるようになると、正餐たるディナーは四時半〜五時ぐらいに始められるようになる。正餐のあとは男性がダイニング・ルームに居続け、女性がドローイング・ルームに退場するようになった。それぞれの部屋は男性向けに女性向けに装飾されるようになった。ドローイング・ルームはやがてかなり立派になり、食前に男女ともそこに集合してからバトラーに先導されてダイニングルームに赴く行列(procession)の作法が確立される。
  • ホーカム・ホール(Holkham Hall 1734)のように図書室や客室、台所などをパヴィリオンとして母屋から突き出して、通路でつなぐような邸宅が建てられる。こうしたパヴィリオンだけを建てたものをヴィラ(villa)と呼ぶ。パラディオの代表作ロトンダ(Villa Capra 1556-1570)を模して、バーリントン卿は骨董品を収蔵するためのチズウィック・ハウス(Chiswick House)を建てた。
  • このころになっても小さな邸宅については、パラペットを設けず、急勾配の屋根をつけていた。これは、パラペットで屋根を隠すとその陰に鉛製の雨樋を設けなければならず、費用が嵩んだためだ。
  • 小邸宅の急勾配の屋根の内部には屋根裏部屋が設けられた。採光のために小さなペディメントを備えた小さな窓ドーマーが作られた。
  • 木製のドアや窓の桟は白いペンキで塗られて保護された。なぜなら中世で使われていた樫などの堅い木のかわりに、柔らかい松がヨーロッパ大陸から持ち込まれ、加工の容易さから広く受け入れられたためである。
  • ペディメントを多用した。
  • 玄関ポーチを二本の柱ではなく、二つの大きな曲線を描いた腕木でポーチの先端を支えるドア・フードが考案される。
  • ルネサンス時代に均整を崩すことで嫌われたベイ・ウインドウがこの時代には再び好まれた。
  • 内壁を漆喰で覆うよりも、木のパネリングが好まれた。
  • イギリスで製鉄が盛んになるにつれて、例えば暖炉の中に鉄製の暖炉が備え付けられた。
  • 絶対王政に反対するホイッグ党の党員によって絶対王政の象徴である、ル・ノートル式の直線的幾何学的庭園は嫌われ、自然の地形を生かした、又は再現したピクチャレスクな庭園がこのまれた。
  • 風景庭園には古代神殿風の建物または廃虚を配した。これはブリテン島にローマの遺跡が少ないことに起因する憧憬によるものだ。
  • イギリス式風景庭園を確立したのはランスロット・ブラウン、別名ケイパビリティー・ブラウン(1716-1783)である。
  • トイレは再び屋外へ移動し、地面に穴を掘っただけの便所(earth-closet)で用を足すようになった。
  • このころのレンガは焼成温度が低く、赤色ではなく黄土色から茶色である。

1760

ジョージV

後期ジョ|ジアン

  • 1748年以降のポンペイの発掘調査が進むにつれて、それまでのギリシア・ローマ建築の知識が間違っていることが多く判明し、正確に復興しようとする動き(revivalism)がでてくる。これは新古典主義(Neo-Classicism)となる。
  • リンネの植物学のように建築様式を分類し、敷地や施主の好みに応じて様式を使い分けたり、混合して絵画のように再構成する折衷主義(eclecticism)がおき、ピクチャレスク(Picturesque)運動となる。
  • 新古典主義やピクチャレスクは科学に出発しながら過去を憧憬するロマン主義(Romanticism)である。両者はロバート・アダム(Robert Adam 1728-1792)によって端緒を拓かれる。
  • アダムは運動性を建築に持ち込んだ。
  • このころ舞踏会ballと集会assemblyを組み合わせた大規模なパーティーを開くことが流行し、邸内の各部屋で同時に違った遊びが取り行なわれた。そのため客に対して各部屋が解放され、部屋を巡回しやすいように、中央の階段室の周りに応接室を環状に配置された。
  • 繊細華麗なアダムの装飾に対して、壮大な内部空間をつくりあげたのが、ジョン・ソーン(John Soane 1753-1837)でアダムの次世代の新古典主義をリードした。
  •  
  • エンクロージャーが進行する。これにより、本来の山村の風景がなくなり、郷愁とともにピクチャレスクがはびこる素地となったのではないか。
  • 防水にあまり適さないために外壁には用いられなかったライム・プラスターに代わって、防水性に優れるセメント・プラスター即ちスタッコ(化粧漆喰)が用いられるようになる。レンガにスタッコを厚塗りすることによって石造りに見せた。

1811

リージェンシィ

リ|ジェンシィ

  • レンガは流行遅れとなり、スタッコで厚塗りされ石造りに似せられた。
  • ベイ・ウインドウの膨らみが丸くなったボウ・ウインドウが考案された。
  • ランチョン(luncheon)昼食を一時から一時半ぐらいに摂られるようになった。ディナーも夜にずれたため、五時ぐらいにアフタヌーン・ティーをとるようになった。
  • ホイッグ党は理性的な新古典様式を好み、トーリー党は権威主義的なゴシック様式を好んだ。

1837-1901

ヴィクトリア

リヴァイヴァル

  • スチュアートとレヴェットはギリシアの古典建築を紹介し、グリーク・リヴァイヴァルがおきる。
  • ゴシック様式が賞賛されたが、それを再現できる石工はもういなかった。漆喰でゴシックを再現、プラスター・ゴシックと呼ばれた。
  • ゴシックを再現できる石工がいないということから、職人の手仕事に対しての関心がおこり、手作りに執着するウィリアム・モリスらが現れた。
  • ゴシック・リヴァイヴァルは頂点を極め、教会から非ゴシックのものを取り去り、古いゴシックが壊され、当時の感覚であるべきゴシックに替えられていった。
  • ゴシック・リヴァイヴァルと共に中世ホールが復興された。1840年代以降はホールは一般化されて、多くのカントリー・ハウスに取り入れられた。
  • 公式な食事は復興されたホールではなく、やはりダイニング・ルームで摂られた。
  • ディナーは更に遅くなり、七時半〜八時ごろ始まるようになった。ドローイング・ルームから行列をつくりダイニング・ルームに赴く儀式は続けられ、その儀式を演出するために、ドローイング・ルームとダイニング・ルームはなるべく離された。
  • 食後の男性はダイニング・ルームに残ってから、スモーキング・ルームsmoking roomやビリヤード・ルームbilliard roomに移って、酒やたばこ、ビリヤードを楽しんだ。喫煙はジョージ朝で確立された後、下火になったが、ヴィクトリア女王の夫君や皇太子が煙草を嗜んだため、また貴族の間にはやり、多くのスモーキング・ルームがカントリー・ハウスに作られた。
  • ヴィクトリア治世の末期になると、ギリシアやゴシックは飽きられ、チューダー朝の赤煉瓦の建築に傾斜していった。工場から出る煤煙も目立たなかった。このレンガの建築が東京駅などの建築として日本に輸入された。
  • 産業革命の進展に伴い水洗便所やバスタブやシャワーが工場で作られるようになった。
  • このころガス燈が屋内にも導入された。天井の漆喰製のローズ(円花飾)の中央からガス管がぶら下がって、シャンデリアにガスを送っていた。
  • 1880年代からマントル付の白熱ガス燈が使用されるようになる。

用語集

  • 一万エーカー以上所有−貴族nobility
  • 三千エーカー以上所有−ジェントリーgentry−ジェントルマン階層
  • 一千エーカー以上所有−スクワイアーsquire−ジェントルマン階層
  • それ以下の自作農−ヨーマンリーyeomanry
  • 小作農−ペザントリーpeasantry
  • 貴族の序列 公爵duke−侯爵marquess−伯爵earl−子爵viscount−男爵baron
  • ポートランド・ストーン 白い石材(石灰岩) (ポートランド)セメントの語源
  • バース・ストーン やや黄色味を帯びた石灰岩

 

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